合理的に物事を考える方法

【目次】
1.「考える」とは何か
  1-1.感じると考えるの違い
  1-2.答え、その正解と間違い
  1-3.一人か複数か、言葉の必要性
  1-4.「考える」の定義
2.「合理的に物事を考える方法」とは何か
  2-1.「物事を」とは何か
  2-2.「方法」とは何か
  2-3.正しい方法の重要性
  2-4.「合理的に」の意味
  2-5.具体的な方法
3.ソクラテスの問答法
4.デカルト
  4-1.デカルトの業績
  4-2.デカルトの真理探究法
5.考える力と数学
  5-1.ソクラテスの問答法とユークリッドの原論
  5-2.ユークリッドの原論とデカルトの真理探究法
  5-3.数学は考える力を磨く最適な学問
  5-4.数学の適用範囲

「考える」とは何か

「合理的に物事を考える方法」とは何かを考えると、すでに「考える」という言葉がその外側に出てきてしまいます。そうすると、「合理的に」「物事を」「方法」とは何かを考える前に、初めに「考える」とは何かを一緒に考えてみる必要がありそうです。つまり、「考える」ことが基本にあって「合理的に」「物事を」「方法」は、その付随的な事柄であるようだからです。まず気付くことは、すでに「考える」という言葉がたくさん出て来てしまっているように、こうやって、何かを議論しょうとするとその行為や頭の中の試行錯誤のような現象を「考える」と人は呼んでいるらしいことです。では、議論や頭の中の試行錯誤は、すべて考えるということなのでしょうか。例えば、喜怒哀楽の感情や花鳥風月の情緒、人が何かを「感じる」ということと、「考える」というとは同じことと考えて良いのでしょうか。

感じると考えるの違い

「感じる」と「考える」こと、どちらも人の体の中で起きている現象を指している言葉に違いはないのですが、議論や頭の中の試行錯誤を「感じる」という言葉で表すことはなく、やはり、それらは「考える」と表現する方がしっくりくるようなので、「感じる」と「考える」にはどうも違いがあるようです。では、議論や頭の中の試行錯誤のどこが「考える」としっくりきて、「感じる」としっくり来ないのでしょうか。その最も大きな違いは、議論や頭の中の試行錯誤には、答えを出そうとする目的があることです。逆に、答えが出そうもない議論や頭の中の試行錯誤の状態を堂々巡り、答えを出す必要のない議論や頭の中の試行錯誤を無用の論議、無駄な考えなどと言って人は忌み嫌います。一方で、「感じる」ことに答えはいるでしょうか?喜怒哀楽の感情や花鳥風月の情緒という状態は、すでにそれ自体が一種の答えであり、必ずしも「感じる」ことからさらなる別の答えを導き出す必要はなく、何の答えもない「感じる」ことを堂々巡りや無用などという言葉で切って捨てる人は、いないわけではありませんが、ここで相手にする価値もなさそうです。

答え、その正解と間違い

ここまでで分かったことは、「考える」ということは、人の中で行われていて、答えを出すために行われているだろうことです。そうすると、さらに大事なことに気付くことができます。「答え」には、正解と間違い、あるいは、正解か間違いか分からない、などという評価があることです。そして、「考える」ということをするからには、「正解である」「答え」を導き出そうと議論や頭の中の試行錯誤を行っているはずなのです。例えば、友人と道を探しながらお目当ての店に行こうとしているときの議論、学校で数学の解答を出そうと頭の中で行う試行錯誤、どちらも「考える」ことをしていますが、たしかに「正しい答え」を出そうと議論し、頭の中で行う試行錯誤をしているわけです。この二つの例から、その他にも色々な「考える」ことの要素を見出すことができます。

一人か複数か、言葉の必要性

例えば、一つには、友人と道を探す例と学校で数学の解答を出そうとする例の違いを探すと、前者は二人で行い、後者は一人で行っています。つまり、「考える」ことには、二人又は複数で行うこともあれば、一人で行うこともあるということです。もう一つあげておくと、どちらの例も主に言葉を使って「考える」ことをしているということです。前者であれば、友人と言葉で話しながら、後者であれば頭の中で言葉を使いながら考えています。ただし、主に、と付け加えたのは、前者であれば身振り手振りも使う可能性がありますし、後者であればすべてを言葉にして考えているとも言えない、実際に一々「1+1=2」を計算するときに言葉でそれを明確に考えるというよりは、どこからかふと2という答えが浮かんでくるのが人の頭の中の不思議なところであったりします。ただ、後者であっても一切言葉を使っていないかというと、複雑な問題を言葉なしで考えるのも難しそうですし、前者であればなおさら言葉なしで複雑な道順を議論することは難しそうです。

「考える」の定義

ここまで来ると、だんだんと「考える」ということが見えてきました。さらに、もう少しだけ切り込んでみましょう。前段では、最後に複雑な道順、複雑な問題を考えるときには言葉が必要だということが分かりました。逆に、言葉を使わずにすぐに答えが出るような課題やその状況には、「考える」という表現を使いづらいような気もします。つまり、何が答えか分からない複雑な課題について、主に言葉を使って答えを出すことが、「考える」ことと言えそうです。さらに、その際には、前者の例では身振り手振り、後者の例では鉛筆でノートを取る、このような頭の中以外の行為も必然的に付随するようなので、行為という言葉を本来の意味用法よりも広げて、頭の中の現象を含める言葉として用いることにすれば、それら全体を「考える」行為と表現しても良いようです。したがって、このように考えてくると、「考える」ということは、『正しい答えを出すために言葉を使って行われる行為』と簡潔な定義をすることができるのではないかと思います。

例えば、このページで行っているのは「合理的に物事を考える方法」とは何か、その正しい答えを言葉を使って出す行為をウェブページを通して私と読者の皆さんが行っているわけで、つまり、一緒に考えているわけです。それでは引き続き、その考えを深めていきましょう。

「合理的に物事を考える方法」とは何か

この節では、「考える」という言葉を修飾する最も重要な「合理的に」という個所を詰めて考えていきたいので、その前に、「物事を」「方法」という個所について、説明を終わらせていきたいと思います。というのは、「考える」には、少なからず必然的に「物事を」「方法」という要素が必要になってくるものだからです。つまり、必然的、当たり前の要素は、たしかになくてはならないという意味ではとても重要ですが、その「考える」ことをそこまで特別な「考える」ことにしてくれているわけではないということです。したがって、その意味では、「合理的に物事を考える方法」にとって、「合理的に」が他の「考える」ことと差別化をなす最も重要な言葉で、「物事を」「方法」という言葉はそれに準じる重要性を持った言葉になってくるわけです。

「物事を」とは何か

それでは、まず、「物事を」について考えると、「考える」ときには、何かを考えているのであって、「何か」もなしに考えることはできないのではないだろうか、ということです。たしかに、はっきりと何を考えているかが分からないこともありますが、そんなときこそ何を考えているのかをはっきりとさせようと頭の中で試行錯誤するわけです。「何か」の答えを出そうとするには、そもそも「何か」を考えていなければならず、その「何か」が全くなく、はっきりさせようと求めることさえしないのであれば、答えが出るはずもなく、考えること自体も行っているとは言えないのではないでしょうか。その「何か」を仮に表すために使っている言葉が「物事を」という個所になります。したがって、当然あるべきものを明確にするためだけに使われた言葉が「物事を」であると言えるのです。

「方法」とは何か

次に「方法」ですが、一つの物事を考える場合であっても、その考えの内容は一つであるとは限りません。いや、考えれば考えるほど、考えはいくらでも異なりえるものです。その違いは、本質的な事柄から些末な事柄までありますが、違うという一点においてはいくらでも異なる考えはありえます。そんな多種多様な考えの中でも、どんな物事に対してもそれなりの正しい答えを導き出すための共通の特徴、あるいは共通の規約のようなものがあれば、その特徴や規約を守りながら考えを進めることで、正しい答えを出すことができるのではないか、そう思いませんでしょうか。「方法」とは、何らかの共通の特徴や規約を満たしながら考えが進められていくことを表しており、それ以上ではありません。間違った方法も共通の特徴や規約さえあれば、方法は方法であり、大事なのは、「方法」が正しいかどうか、つまり、その「方法」が持っている特徴や規約が正しいのかということに尽きることが分かります。

正しい方法の重要性

そして、もし、正しい特徴や規約を持つ「方法」を見つけることができれば、その「方法」の特徴や規約を守って考えてさえいれば正しい答えが自ずと出てくるのではないでしょうか。少なくとも試行錯誤の量を減らしたり、より正しい答えを導き出す助けにはなりそうです。さらに、逆に、答えが正しいかどうかの評価についても、その答えを導き出すための考えが「方法」として正しい特徴や規約を守っているかどうかによって、ある程度は判断できてしまうのではないでしょうか。

実際、複雑な問題についてその答えだけを聞いてもそれが正しいかどうかを判別するのは、たくさんの例にあてはめてみれば正しそうかどうかはある程度は分かりそうですが、どこまで正しいのかは無限に物事を当てはめることはできないので、なかなか判別するのは難しいものです。そのようなときは、その答えを導き出す考えが正しいかどうかで、その答えの正しさを判別しようとするわけです。

話を先取りすることになりますが、正しい特徴や規約の具体例を挙げなければ理解しにくいと思いますので、簡単にいくつかその例を挙げたいと思います。例えば、第一に主張には根拠を求める、第二に言葉の意味を明確にする、第三に分からないのに分かっているふりをしない、第四に重要な順番を付ける、第五に見落としをしない、などの特徴や規約を守りながら考えを進めてみてはいかがでしょうか。仮に、この一つの特徴や規約でもそれを無視して考えを進めたときに、その考えは正しいと言えるでしょうか。つまり、根拠がなく、意味が曖昧で、分かっているふりをした、重要でない些末なことを含んだ、見落としのある考え、から導き出された答えが正しくないだろうことは、ほとんどの場合誰にとっても明白なことでしょう。

逆に、このような特徴や規約をきちんと守って考えを進めれば、守らないよりは守った考えの方がより正しい答えを導き出せるのではないでしょうか。なぜなら、その答えは、より根拠があり、意味が明確で、分かることだけを用い、重要なことを優先し、見落としが少ない、考えによって導き出されたからです。例えば、それが数学の証明になります。そして、その数学の証明こそが「考える」こと、とくに正しい特徴や規約を持つ「方法」による特別な「考える」ことの一例になるわけです。したがって、考えることにとって、その考えが持っている正しい特徴や規約こそが、その答えの正しさを保証するために重要な要素となるわけです。

「合理的に」の意味

以上の議論から、「合理的に」という言葉が「合理的に物事を考える方法」の修飾語として最も重要であることが分かり、さらに、考えることの正しい方法さえ見つければ、正しい答えを導き出したり、答えが正しいかどうかを判別することが、ある程度容易になりそうなことも分かりました。そして、少なくとも「合理的に」「物事を考える方法」は、「正しく」「物事を考える方法」であらねばならないということも分かります。なぜなら、そうでなければ「合理的に物事を考える方法」は、「正しくない」答えを導き出す無用の「方法」でありえてしまうからです。つまり、「合理的に」とは、少なくとも「正しく」という意味であり、そうすると「合理的に」「物事を考える方法」とは、前二段の議論も踏まえると、正しい特徴や規約を持った「物事を考える方法」でなければならないように思えます。

ここで改めて「合理的に」という言葉を見直すと、「合理的に」の「合理」とは、理(ことわり)に合うとも読めます。そして、「ことわり」とは、堂々巡りのようですが、普遍的に正しいことを意味します。しかし、ここで単なる「正しさ」が「普遍的な正しさ」に格上げされたことに注目してください。つまり、「合理的に」には、ただ「正しい」だけではなく、普遍的に、言い換えれば、いつでも誰にでも「正しい」と納得できるものでなくてはならないという追加の条件が含まれるわけです。いつでも誰にでも「正しい」と納得できるものという言葉をさらに別の言葉で言うと、「真理」「真実」と表現できます。したがって、「合理的に物事を考える方法」とは、「真理」「真実」に合うように「物事を考える方法」と言い換えることができるようです。

具体的な方法

そうすると、「真理」「真実」とは厳密には何か、という疑問が湧いてきますが、ただそれはなかなか難しい問題なのですが、同時に、「真理」「真実」に合う「物事を考える方法」と思える具体的な方法はあるのか、という別の疑問も生じてきます。先ほど例に挙げたような仮初めのものではなく、もしも、それなりに評判のある具体的な方法があるのであれば、それが本当に「真理」「真実」に合う「物事を考える方法」であるのかを自分で考えてみて、そうであると思うのであれば実際にその具体的な方法を使って考えてみればよいわけです。そして、前者の疑問については、人それぞれかなりばらつきのある答えを持っていますが、後者の疑問については、学問に使うのであれば具体的でなかなか有益な答えを提示したと多くの人が思っている方法があります。それが次に説明するソクラテスとデカルトという哲学者の主張になります。

ただ、次節のソクラテスとデカルトの主張を読む前に、今一度押さえておかなければならない点は、どんな考える方法であってもその目的は、いつでも誰にでも「正しい」と納得してもらえる答えを出すこと、にあるということです。そのための「物事を考える方法」とは何か、あるいは、「合理的に物事を考える方法」の具体化を模索するわけです。各哲学者はその手段を説明しますが、ともするとその手段を目的と勘違してしまうことが多くあります。したがって、その目的を忘れずに念頭においておくことが次節を理解するためにはとても大切になります。そこで、最後にその目的を忘れないように、いつでも誰にでも「正しい」と納得してもらえる答えを出すこと、を一言で言い換えておくと、「真理又は真実の探究」というキーワードになります。いつも忘れずにこの目的を念頭に置いて以降をお読みください。

ソクラテスの問答法

ソクラテスは、紀元前のギリシャの哲学者でソクラテスが表れる前と後では学問の様子がガラリと変わるほどに、学問全体に大きな影響を与えた人物です。ソクラテスが思いついた「物事を考える方法」は、問答法と言われ、彼自身はそれを産婆法とも呼んだそうです。なぜ、産婆法と呼んだかというと、妊婦のお産を助ける産婆のように、何かを考え出そうとしている人を助けて新しい発見を生み出させることができる方法であると、そのように問答法について彼が考えたからです。問答法とは、その名の通り、ソクラテスが質問者となり、ソクラテスの議論の相手を回答者として、質問と回答を繰り返していく議論の方法です。

なんだそれだけか、と思われるほど単純なことです。しかし、回答者は、その主張や回答の合理的な根拠や意味を質問されることによって、初めて自分が抱いていた暗黙の前提や曖昧な理解を知ることができます。その上で、あぶりだされた問題や矛盾を解決することによって、質問を受ける前には思いつきもしなかった新しい発見を見つけることができるという現象は、時代が現代に変わっても何ら変わることがありません。

問答法を行うにあたり、優秀な教師に質問者となってもらえればそれほど有難いことはありません。ただ、問答法の本質は、自分が気付いていない暗黙の前提や曖昧な理解に対して「疑問」を持てるかどうか、ということなのです。したがって、たとえ一人で勉強している場合であっても、自分が考えている「何か」に対して、それはどういうことなのだろうか、と自問自答を繰り返していくことが、自分の考えを明確にして、新しい発見、あるいは「正しい答え」、あるいは「より真実に近い答え」を導き出す方法であることには変わりがありません。ソクラテス自身もそのようにして様々な発見をしていきます。問答法自体ですらそのような形で明確化されていったのだろうと思います。

ちなみに、日本人よりも西洋の一部の人々の方が議論好きであると漠然と感じている方々が多いと思いますが、その理由の一つにはソクラテスの問答法があるのだろうと推測されます。例えば学校でも、教師は知識の権威者としてではなく、ソクラテスのような優秀な質問者として教壇に立つことが理想とされるわけです。

さらに、詳しくソクラテスの主張を知りたい方は、「ソクラテスの弁明」という本などをお読みください。とても薄い本で、岩波文庫から500円以下で販売されてると思います。どこの本屋さんにでも置いてあるはずです。このような良書が簡単に日本語で手に入るのですから、日本人は恵まれた境遇にあると感じます。

デカルト

デカルトの業績

デカルトは、16~17世紀のフランスの哲学者で、数学、科学にも多大な功績を残しました。ソクラテスの紹介に合わせて表現すると、デカルトが表れる前と後では学問、特に自然科学の様子がガラリと変わるほどに、学問全体に大きな影響を与えた人物です。哲学者としては、ソクラテスと同じように真理を探究する方法を説き、デカルト自身がその方法を実践して様々な発見をしました。特に大きな業績は、数学において現在では皆さんが中学生で学ぶことになっている数式と座標上の図形の関係を発見したことです。少し想像しにくいかもしれませんが、デカルト以前は数式と座標上の図形を同一視して表現するという手法は存在せず、図形の大きさで数を捉えようとする考え方はあっても、基本的に数式は数式、幾何は幾何という別々なものとしてしか捉えることができていませんでした。デカルトは、まさに彼が説く真理を探究する方法の第一の実験台として、この数式、つまり代数と、座標上の図形、つまり幾何を直接繋げて考えることに成功しました。そのため、現在でも一般的な直交座標をデカルト座標とも呼びます。

デカルト座標の考え方は、その後のニュートン力学ひいては科学全般の基礎になりますし、現代であっても最先端の数学と言えばその代表に代数幾何学が挙げられ、かなり遠くにはなりますがデカルト座標の考え方がその出発点となっているとも言えます。デカルト座標のみならず、彼が説く科学的な方法論も科学という分野を築いていく大きな営みの中の一つの柱になったと言えるだろうと思います。このようにデカルトは数学や科学のみならず、現代の学問全般を学ぶための教養の基礎になっている哲学者です。そのデカルトの「物事を考える方法」は、自著の「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法序説」略して「方法序説」という本に詳しく書かれており、しかもこの本もとても薄い本で、岩波文庫から500円以下で販売されており、どこの本屋さんでも手に入ると思います。数学や科学志望でなくとも学生であればぜひ一度手に取って読んでみて損はない本だろうと思います。

デカルトの真理探究法

「方法序説」の中でもデカルトの説く主な「合理的に物事を考える方法」を次に紹介すると、

1.注意深く疑問を持って考え、自分が本当に正しいと思うことだけを受け入れる。
2.より分かりやすいように、できるだけ多くそして必要なだけの小さな要素に分解する。
3.正しいことを単純な要素から複雑な要素まで順序立てて一つづつ考える、少なくとも順序を想定する。
4.以上のすべての場合に、全体を見直し、すべてを列挙して何も見落とさない。

以上、四つの方法は、単純で明らかなことから始め、一歩一歩、正しいことから正しいことを順序を守って進んで行きさえすれば、人が認識できるすべての物事、どんなに複雑な問題、どんなに隠された真実にでも、結局はたどり着くことができる、という数学の方法論を参考にした考えに基づいているとデカルトは主張しています。

ただし、デカルト自身も伝聞を信じるなと言っておりますが、どんな知識でも原典ほど正しい情報はないので、正確には「方法序説」を読んで頂くことにして、上記は分かりやすいように簡単に表現しています。この方法も問答法と同じく非常に簡潔で、特に一番目は問答法と似ています。多くの学者、特に哲学者、数学者、科学者の助けになって来ただろう勉強方法なので、数学の勉強の際には意識的に使ってみてください。数学の力が付くと同時に、その数学の勉強を通して他分野においても考える力が大いに増すはずです。

デカルト自身も正しく考える力を身に付けるためだけにこの方法で数学に取り組んでみたと言い放っており、にもかかわらず大発見をしているということを本人も自覚しており、このようなアプローチこそ学問における根本的な発見の近道、唯一の道と示唆しているかのようでもあります。つまり、根本から見直せる程の「合理的に物事を考える」力に応じて、発見の器も決まるということでしょうか。

考える力と数学

ソクラテスの問答法とユークリッドの原論

上述したソクラテスとデカルトの「合理的に物事を考える方法」は、どちらも数学とは切っても切り離せない深い関係があります。ソクラテスの問答法は、人の考えに含まれる未知の前提、偏見、誤解、矛盾をあぶりだし、より正しい合理的な考えに人を導く方法として、弟子のプラトン、その弟子のアリストテレスへと引き継がれ、さらにアリストテレスがまとめ上げた論理学が、高度に論理的な構成を持つ数学の名著、ユークリッドの原論へと結実していきました。

ユークリッドの原論とデカルトの真理探究法

ユークリッドの原論は、それまでのギリシャで知られていた数学の集大成であると共に、その高度な論理性は数学のみならず学問全般に渡り、多大な影響を残しました。その後、千年近くも絶対的に正しい書物として認知されていたことからも、いかにその合理性、論理性が高いものであったかが分かります。

実際に読んでみると内容としては高校数学の範囲に収まる事実が多いですが、その論理性には、初めて読んだ時には鳥肌が立ったことを思い出します。目的も異なるので仕方のないことですが、残念ながら高校数学の教科書とは雲泥の差です。これが数学かということが分かりますので、一読する価値があります。

デカルトの「真理を探究する方法」は、前述の通り、さらに直接的に数学の、特におそらくユークリッドの原論の影響を大きく受けて、その論理的な手法から着想を得たようです。例えば、物事を分解して考え、いくつかの原理を見つけ、そこから推論によって理論を展開するという手法などです。

数学は考える力を磨く最適な学問

このように、「合理的に物事を考える方法」、つまり、「合理的に物事を考える力」は、数学と切っても切り離せない歴史を持っています。デカルトがその考える力を数学で鍛えようとしたように、ギリシャの学問所アカデメイアには「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と門に書かれていたそうですが、それは単に実学の幾何学というよりは、論理的に考える方法論が身に付いていること、それが入学資格であると宣言していたのだと思います。つまり、数学を通して考える力を磨くというのは、受験のために暗記や反復練習ばかりをしていたのでは効果はあまりないかもしれませんが、このページで紹介した方法、正しい取り組み方をするのであれば、古来から考える力を身に付けるための格好の手段、学問であり、最も王道のアプローチと言えるだろうと思います。

数学の適用範囲

元々、数学を哲学やその他の学問からとりわけ切り離そうとする視点はギリシャにはなかったように見え、特にその原理や論理は他の学問と通じるものがあるという視点がギリシャ時代の哲学者、それからデカルトにも共通して見られます。近現代においても、数学の基盤、基礎になればなるほど、自然科学はもちろんのこと、他学問への影響は大きく、とりわけ数理論理学は多大な影響を哲学を含めた諸学問に与えています。

それは、数学自体が数の学問という縛りでは収まらない、数の先にある物事の物質的な真理を探究するための学問としてある、と捉えれば合点が行きます。そもそも、数も幾何も初めから人類が知りえた知識ではなく、物事の物質的な真理として発見されたわけで、後に続く代数、群論、集合論などの数学の発展、何よりその拡張や応用の歴史を見れば、そのような捉え方も頷けると思います。

特に、数学の論理的な側面について、ユークリッドの原論で確立された、原理から推論を連鎖させていくという理論の枠組みは、それなりの洗練はありましたが、現代でも数学や諸学問の基本的な理論構成であり、これ以外の理論構成を人類がいつ持ち得るのか、いかにギリシャの学問、数学が優れていたかを思い知らされます。

このように、数学を通して考える力や学問の枠組みを身に付けることが、今後どのような学問、仕事を行う上でも大きな助けになるだろうと思います。さらに、論理とは何か、命題、集合と推論規則についての「推論規則について」では、もう少し具体的に数学の理論構成にも触れてみたいと思います。

公開日:2019年1月30日
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